ディビット・イーグルマン:環世界と言う概念があれば、意見を言う人、批判する人がどの程度、自分が入手できない情報の多さ、見ることの出来ない世界の広さを意識し、謙虚な姿勢を保っているかを見ようとするだろう。
アダム・オルター:「無意識化の情報処理」として、男性は赤いシャツを着ると、他の色のシャツを着た時に比べ、女性にとって魅力的に見え、女性の場合は写真を赤で縁取ると男性にとってより魅力的に見える。
テレンス・セジュノスキー:主観的な時間の長さは、新奇な体験の量で決まると考えた。新奇な体験が年を取るほど減っていくのは確かである。人生の長さは対数的になっているのかもしれない。終わりに近づくほど短く感じられる。
マーセル・キンズボーン:異質な人同士が結婚すると、子孫の認知能力が高くなりやすい。人類のIQ(知能)が向上し続けているのに貢献している可能性がある。
クレイ・シャーキー:80/20の分布が見られると言うのは、平均と中央値が大きく異なる。「ビル・ゲーツがバーに入ってくると、平均では客の全員が億万長者になる」パレートが「予測可能な不均衡」と呼ばれてから100年になるから、そろそろパレート分布を予測できる様になる必要がある。
ウイリアム・カルヴィン:二酸化炭素の排出量を削減するのは、馬が逃げた後の納屋の扉に施錠する様なもの。価値はあるが元の状態には戻らない。
トール・ノーレットランダーシュ:知的な人生とは、上っ面だけの抽象表現と深さのある抽象表現を区別できることが全て。頭から飛び込むときは、その前に深さがあるかどうか把握することを忘れないで。無駄遣いはお金持ちしかできないが、ただ使うのでは無く、人目を引く形で使う。そうすれば周囲にお金持ちだと知らしめる事になる。
ドン・タブスコット:認知の武器として最も強力なものはデザインする力。脳は鍛えることができ、使い方次第で変えられる。新しいテクノロジーにさらされることで、ネット世代の脳の容量が従来の限界を押し除ける可能性がある。記憶できる容量に限界があるのならば、記憶に留めるものと留めないものの基準を設ければいい。
マット・リドレー:集団的知性とは各自が一つのことを行いながらそれに熟達し、その成果を持ち寄って共有したり組み合わせしたりして、理解すらしてないことができる様になる。
スーザン・フィスク:逸話をいくら集めてもデーターにはならないし、意見をいくら集めても事実にはならない。
スコット・D・サンブソン:人は自然の外に存在しているのでも、自然より上の立場にあるのでも無く、完全に自然に内包されていると言う事実。
アマンダ・ゲフター:事実というものは、かって私たちが信じていたものよりもはるかに捕えづらく、様々な姿になる。
エリック・トボル:医師が根本原因を探ることは滅多に無い。理由を見つける能力が勝ってないほど高い時代だが、忙しすぎて究明する時間がない。説明がついていないことをほうて置いてはいけない。
デイヴ・ワイナー:歩道を進んでいると、道を譲る責任は相手を目で捉えているあなたにある。人間という種の性として、人は他者を探し求めずにはいられない。
ポール・サフォー:個人にとって自然な最良のタイムスパンを超える仕事に就いたら、その人は仕事で失敗をする。気候変動の様な問題で手を焼いているのは、レベル5のタイムスパンでものを考えられる人が必要な国会に、レベル2でしか考えられない人が選出される政治制度に原因がある。
タニア・ロンブローゾ:自分の信じている物事には覆る可能性があると認識しない限り、冷静な議論や成長は望めない。
エドゥアルド・サルセド=アルバラン:人は時として、それが何であれ、今この瞬間の欲求を満たすだけのために行動を起こす。本能を制するのは難しい。「パニックになるな」という警告が役に立つのはパニックに陥ってない時だけ。ホモ・センサス・サビエンスという考え方をすると、人というものは、合理的な能力への過剰な信頼と、本能に対する忠実さを両方を抱え、その中間に位置するものだと気づける様になる。
フィエリー・クッシュマン:どの程度の不正を行うかを決める自分がいる一方で、不正を自覚しないレベルに調整をしようとする自分もいる。