markdadaoの日記

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ある留学生

書類を片付けていたら、1997年の1年間地元紙の上毛新聞から依頼され毎月投稿していた原稿が出てきた。

昨今、留学は特殊なことではなくなりつつあります。多くの留学生はどのような夢を抱き、その経験を自分の人生にどのように役立たせているのでしょうか?
今から30数年前、アメリカへ農業の研修留学に参加した大学生がおりました。当時は現在のように日本人の旅行者も多くはなく、港へ行き日本国籍の船を見つけては、日の丸の国旗にホームシックを癒したそうです。
彼のホームステー先はグラントさんファミリーで、カルフォルニア州の、日本でいえば農協の会長さんを公職に、傍ら日本の農業近代化のため、研修生の受け入れに力を注いておりました。このグラントさんは終戦直後、日本の食糧難を憂い、妊娠している牛を多数寄贈し、後年昭和天皇より勲二等を受けられた。そのような暖かい家庭の中で研修留学を終え彼は帰国しました。
しかし彼は、人生の針路を農業から飛行機のパイロットへと変更しました。当時「就職先が少なく、たまたま日本ではパイロットが不足しており、それに応募したため」とのこと。
当時の日本は、パイロットの訓練をアメリカのカルフォルニア州で行っており、彼は再びグラントファミリーと研修期間親交を深めた。
その後グラントさんは全米農協の会長となり、当時カルフォルニア州知事のレーガンさんの頼みを受け、大統領選挙を支援してワシントンDCへ乗りこむことになりました。大統領より重職を依頼されましたが、高齢を理由に断わり、相談役として大統領顧問をされておりました。そして、大統領からグラントさんは「アメリカの良心」と賞賛され、また党派を超えて人望を得ております。
ちょうどその頃、彼の飛行機会社はワシントンDC線の就航が決まり、その国際線パイロットに彼が選ばれ、3度目のグラントファミリーとの再会をワシントンDCで果たし、毎月のフライト時には顔を出すことになりました。そしてそのグラントさんから「日本の息子」として大統領やそのブレーンに紹介され、彼等との親交が始まりました。その後彼は「勉強がしたい」とグラントさんへお願いし「共和党上院院内会議常任委員」として会議に参加したり、上、下院議員さんや同年代の副大統領とお付き合いを始め、ナンシー大統領夫人にも可愛がれ一緒に釣りなどに出かけたりしておりました。
おりしも、当時日本からの輸入超が原因で、日本バッシングが加熱しておりました。テレビで日本製品をハンマーで壊している映像を見て、彼はアメリカの友人たちに連絡をとったところ、彼等もこのことで憂慮しているとのことでした。
この事件依頼、彼はフライトの空き時間を利用しては人脈を広げ、日米間のボランティア活動を行っておりました。そしてパイロットとして10,000時間のフライトを終え、引退後はアメリカと日本の架け橋として、両国のお役に立ちたいと考えております。
彼のような通常経験できない留学の機会を得たことは、特殊な例だと思います。しかし留学生の誰もが、海外の人たちとの交流を積極的に広め、民間外交による国際社会の貢献を行うことは大いに可能だと思います。

このグラントさんご夫婦とはサンフランシスコで、彼に誘われたNGOの会合でお会いしたことがありますが、すでに高齢で数年後に亡くなられました。また彼の友人の一人、アン・ベネマンさんは来日された時に紹介され、その後ブッシュ(息子)大統領の農務長官に抜擢され、2005-2010年にはユニセフの事務局長を歴任された。私は約20年前、彼の依頼でアメリカの農業関係のNGOを日本に定着させるお手伝いをしたが、力不足で日本の農業関係者への取り込みができなかった。