ここへ来て緊張が高まる日本の外交、そして伏線となるような憲法改正の機運。時の勢いに流されるのではなく、何か時代を見据える判断基準を持ちたいと思っていた。いっとき世界はグローバリズムの波に覆われ、いまだ日本は外国人観光客の増加を見込んでいる。しかし、世界の政治、特に欧米のナショナリズムの台頭を、日本にいると肌で理解するには正直難しい。
そこで、昭和史研究では第一人者の半藤一利氏と保坂正康氏の対談形式による「ナショナリズムの正体」を読んでみた。以下に抜粋し、参考にしたい。
正村公宏さんの「日本の近代と現代」という本でナショナリズムをわかりやすく定義している。
一つは圧迫された民族、ないしは植民地になっている地方の民族が独立を要求する運動としてのナショナリズム。「民族主義」
二番目は、ある程度国家が出来上がっているけれど完璧ではなく、民族を基盤としてより統一された国家を追求する運動としてのナショナリズム。「国民主義」
三番目は、自分たちの国家を至高の存在と考え、国家目標を実現するために個人の献身を求める思想または運動というナショナリズム。「国家主義」
この3つがこの本の基本となり、三番目の「国家主義」を悪いナショナリズムとして、一番目の民族主義を良いナショナリズムとしている。
上部構造(国家)のナショナリズムが下部構造(共同体)のナショナリズムを圧迫し、抑圧してきたのが、日本の近代以降の歴史だと見るからです。上部構造の権力者達は、下部構造の「良いナショナリズム」を抑圧するだけでなく、うまく利用するんです。
武士道という枠組みが人を自制させることには、凄い力がある。人を殺傷する技術を、心を究めて自分を律する思想へと高めていった。明治以降の近代になって薩長政府が開国を決めると、武士道を上から抑圧して破壊してしまった。特攻や玉砕が武士道ではないことは、単純な歴史事実をみればわかる。
共同体に属していない人はどこにも属していないという孤独感がある。それで、心情がいきなり国家と直接に結びつきやすい。それで日本が馬鹿にされると、カッカしやすくなる。
従軍慰安婦問題を国際社会から問われているのは、国家が関与したかどうかということは問題の本質ではなく、戦争中に悲惨な目に遭わされた女性の、人権の問題なんです。人道の問題なんです。
国際化というのは、世界のことを広く知り、個々の国や地域の事情や常識を柔軟な態度で受け入れて、世界の中の日本という視点でものを見ることです。世界的に見てどこが本質的問題なのかがわかっていないから、すぐに国家ナショナリズム的な言動に走ってしまうんです。
自分たちの被害ばかりを言い立てるのでは、戦争防止の役には立ちません。どうして戦争になってしまったのか。何をやった、あるいは何をやらなかったから戦争になったのか。自分たちにとって忘れてしまいたい事も、覚悟して語ってこそ教訓として役に立つ。
団塊の世代が耳にしたであろう中国や朝鮮の人による暴力もまた、日本人による残酷な行為を(彼らは)幼い頃に刷り込まれていった結果なのかもしれない。たとへ刷り込みは消えなくても、それから60年もの人生経験を積んでいるはずです。想像力によって、刷り込まれた意識を乗り越えることができないのならば、情けないと言われても仕方がないでしょう。
もの凄い危機に直面すると、日本人は民族として純粋になりたがる傾向がある。今だって、「朝鮮人でていけ」なんて、ヘイトスピーチをする人の心理に同じ面があります。日本人だけの国でありたいという攘夷意識が出るんですね。
戦後では案外、誤解されていますが、昭和10年代に入る前、ナショナリズムによって国民が良い状態だった時代はあったんです。少なくともこの時期のナショナリズムは、まだ、国家のために犠牲になれというナショナリズムではない。それ以降、国家ナショナリズムのために超国家主義者たちがそれを上手く利用するようになっていくんです。
昭和史の教訓としては、美しいとか、勇ましい言葉に惑わされて、国家に全権を白紙でまかせるようなことをしてはいけない。
日本は島国で海岸線が長すぎる。当時は現代のようにミサイルはありませんから外で守るとすれば、陸続きでくる敵を警戒しなければならない。するとルートは朝鮮半島になるのです。つまり当時の日本の権力者にしてみれば、韓国併合はやむにやまれない国防上の要求だったんですよ。韓国の人にとっては、たとえ防衛でも、日本の身勝手だったことにはかわりないんですがね。
太平洋と日本海から挟まれて攻撃されたらそれで終わりですから、日本海側を自分たちの防衛線にしようとする。
日満議定書は押し付けられた側のプライドがズタズタになるほどに屈辱的な内容だということで、押し付けた日本の官僚はそれを自覚していたのです。
日米安保条約にサインをした吉田茂は「この屈辱を味わうのは俺一人だけでいい」と言った。だから、岸さんは安保条約改定でそれを直したかった。(岸は満州の官僚だった。吉田は満州・奉天の総領事だった)
「21カ条の要求」で中国を反日一色にし、次に日満議定書でもまた、中国のプライドをズタズタにしたんですね。・・・反日的になるのは当然なんです。
自分の故郷を愛する気持ち、自分の家族を愛する気持ちは誰もが同じなんです。中国の人にも故郷や家族を愛する同じ心理はあるし、韓国の人だってそうです。
他の国の人も同じだと理解した上で、相互の関係が作れるはずなんです。そのためには中間層の交流を広げて行くべきと思います。
国際関係の三つのベクトル。A層(国家ナショナリズム)国益優先の政府レベル 、B層(庶民ナショナリズム)相互理解をめざす国民レベルの中間層、C層(歪みを伴うナショナリズム)感情だけのレベル(相互不信)
石原氏が、尖閣を都の所有にすると言い出した。そこから始まる日本側の動きは、全て、上手く中国の軍部に利用されてしまった。野中広務は、「何もしないで静かに実効支配を続けているのが、一番日本の国益に適っていた。」と言っていた。
闇雲に国家に従うのではなく、しっかりとした自我を持った日本人であってこそ、初めて真のナショナリズムを持つ事ができる。
これからの我々は、自立する強い日本人として生き、ナショナリズムを国家の側ではなく、自分の側に取り入れて生きるべき。
ナショナリズムがぶつかったまま戦争になれば、相手を抹殺しようなんて思い込みかねないんです。だから、安易に政治目的でナショナリズムをかきたてて、戦争と結びつけるような事を考えてはいけない。
マスメディアの人間が肝に銘じて置かなければいけないのは、決して、戯れに愛国者になってはならない事です。勝海舟は「忠義の士というものがあって、国をつぶすんだよ」というのですが、至言といえるんじゃないですか。
人間は自分勝手で不完全な生き物で、往往にして暴走しやすい。そして国家権力は自分の無謬性を疑わなくなる事がある。自分の正義しか信じなくなる。その国家権力の暴走に対する歯止めとして、憲法があるんです。だから、憲法を改革するのなら、漸進的に少しづつやっていくべきなんですね。
内田樹さんの言葉を借りれば、集団自衛権とは「他人の喧嘩を買って出る権利」なんです。
破局への運動というのは人々を誘惑するんですよね。軟弱を唱える者には「それでは日本が成り立たない」と脅迫し、そして破滅がさらに組織化される。早い話が、破滅への欲求が暴力となる。
長谷川如是閑の昭和4年に書いたエッセイ「戦争絶滅受合法案」。
「戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力を生じたる後、十時間以内に次の処置を取るべきこと。即ち各項に該当するの者を最下級の兵卒として招集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。
1. 国家の元首。但し君主たると大統領たるとは問わず。尤も男子たること。
2. 国家の元首の男性の親族にして16歳に達せる者。
3. 総理大臣、及び各国務大臣、并に次官。
4. 国民によって選出されたる立法部の男性の代議士。但し戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。
5. キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。
上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として招集さるべきものして、本人の年齢、健康状態等を斟酌すべからず。但し健康状態に就いては、召集後軍医官の検査を受けしむべし。上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として招集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし」