理想的な逝き方は、「お父さん、お父さん」と呼んでも起きてこないので、見に行ったら息を引き取っていた。昨晩まで元気に話しをしていたのに、とは世間で言う羨ましがられる「ピンピンコロリ」だが、現実はそうは簡単にいかないようである。
「この手術をする事で、命を永らえることができますよ」と執刀医の先生を信じ、手術台で青白い手術用照明を見ながら麻酔で気を失う。
「終わりましたよ」と先生の声に意識が戻るのであるが、手術が失敗に終わり、「それまで」という可能性もある。患者は意識が無いのだから、死への恐怖もなく終わってしまう。
問題はこの死への恐怖と、この世への未練である。それでも、日々の出来事に感謝し、満足できる人はジタバタしないだろうね。よっぽどの人生の達人では無い限り無理だろうと思うが。以前ある本に書かれていた、人生の哲学を実践鍛錬した高名なお坊さんでさえ、死に際では見苦しかったそうである。
100歳を過ぎた母に久しぶりに会いにゆく。「最近耳が遠くなってきた」と、そそくさと補聴器を取りにゆく。座した姿勢は竹のようである。周囲の多くの死を見てきた母は何の迷いもなく、ただ面倒を見ている弟への感謝と、私の仕事だけが心配なようである。
池波正太郎は「人間は、生まれ出た瞬間から、死へ向かって歩みはじめる。 」と現実を突き付けるが、自分の始末をつけられるまでは現役を貫くつもりだ。最近はネットからの依頼もあり、誰かのためになる事が励みになっている。
新型コロナが沈静化するであろう年末には、バンド活動も再開したい。夢や目標は生きる活力になるが、不平不満は身を滅ぼす。人のありがたみを心で受け止め、諦観の境地を体現したいものだ。