富岡市国際交流協会の会報に国際交流の意義が書かれていました。
花見の季節になりました。花鳥風月を愛でる日本には、古くから八百万の神が在り、水や土や風の中にも神様がいるといわれてます。これは唯一神を唱える国の人たちからは、ちょっと分かりづらいことかもしれません。
チェスと将棋は、駒の動かし方は似ていますが、チェスの駒は最初から白黒はっきり別れていて、相手に捕らえられると二度と盤上に戻れません。これは中国将棋のシャンチーも同じです。しかし日本の将棋は、駒は敵も味方も同じ色形で、時には裏返って別の駒の動きをしたり、また相手に捕らえられても向きを変えて使うことができます。
インターネットやOA機器の発達によって、簡単な日常会話程度はスマホが翻訳してくれるような時代になりました。無機質な知識よりも人としての知恵が今更に大事になります。
国家同士の意図的な仮想敵国意識は、同胞意識を高揚させるために必要な場合があるかもしれませんが、国際社会で今日本に求められている知恵は、ともすると日本の将棋のような柔軟性かもしれません。国家間などのあまり大きな話はしかたがありません。
市民のボランティア活動としての国際交流は人権意識の一種でもあります。学校や職場でのいじめ問題などは、もっぱら幼稚な嫌悪感や自己顕示欲によるものですが、人種や宗教、生活習慣や嗜好を超えての交流の場が、身近な物事を見直すきっかけとなればまた一興です。
花見は、どう咲いてどう散るかを考えさせられる一時。桜三月待ちぼうけ、雨月の花芽、月おぼろ。
記述は赤石純会長。なかなかの文才があり、私がJCの会長の時、彼によく挨拶文を添削していただきました。国際交流は変化への対応力と多様性への許容力が必要であり、またその結果自分達を公平に観ることも出来ると彼は言ってます。