markdadaoの日記

真空管アンプ用トランス、スマホ用衝撃吸収フィルム、RC、政治経済、読後感想など

ザ・シルクデー(イベント)


知名度のないイベントのチケット売りと協賛金集めは難しい。そこで地元のマスコミ(上毛新聞、群馬読売、NHKFM、FM群馬、群馬テレビ)を訪問し、このイベントのスタッフになってもらうよう頼み込んだ。「チケットが売れない」と電話すれば、新聞社は翌日紙面に書いてもらったり、FMやテレビはタダででイベントのスポット案内をしてもらった。
音楽イベントは若者には喜ばれるが、客が集まるような「売れているタレント」はギャラが高い。当時のバンド仲間でドラムの八木君が、高円寺の「ジロキチ」でライブをやっていたNaitive Sunの本田竹広氏と出演交渉し、ライブ終了後徹夜で楽器を運んできてもらった。ステージで本田さんの奥さんのチコ本田さんと一緒にパーカッションをやったり、まだ高校生だった息子さんの珠也君が椅子から腰を浮かしてペタルを踏んでいたのが懐かしい。しかしJazzバンドは比較的ギャラが安いが、一般の人には知名度が低い。
その対策として、美人を集めれば人が集まると考え、美人コンテストを計画した。何しろ初めてのため、埼玉で美人コンテストがあると聞き、皆で見学に行き募集の仕方や投票の仕方を教わってきた。美人コンテスト一つでも大きなイベントになるので、同じバンド仲間のサックスを吹いていた松井君に責任者として頼んだ。何せ4,5人の委員会で立ち上げたイベントのため、人手不足だった。
自分は大きな組織に入ったことが無かったので、思わぬことに手を焼いた。それはこのイベントを心配するJCの理事会であった。官僚と同じで、何の資料が足りない、予算書が不備である等などの要求であった。「初めての試みをゼロから始めているのだから難しいことを言わないで応援してくれ」との思いがあったが、佐藤周一委員長が毎日事務局へ通い理事会資料を作成してくれた。この理事会対策は自分にとっては不測のことであり、委員長と理事長の支援のお陰でイベントが開催できた。コミュニケーション、そして情報の伝達の大事さを痛感した。
屋外のイベントのリスクは、民間の天気予報会社に金を払い調べた。5月の開催当日は晴天で暑いくらいであった。群馬テレビの司会者や県の部長、市長、片倉工業の役員らに美人コンテストの審査員になってもらった。またバンド会場の椅子づくり(ビールケースに板を渡したもの)にはJCのメンバー総出で手伝ってもらい、イベントの盛り上がりにも応援してくれた。
すべてを終了し、近隣の住宅へ騒音の謝罪に行った帰り途、佐藤委員長がひょうひょうと向こうからやってきた。そのニコニコした顔を見て、初めてイベントを成し遂げた達成感がこみあげてきた。
数年後コンテストのミスシルクに選ばれた子はJCの後輩の奥さんになり、準ミスの子はシルクデーを手伝ってくれたスタッフの奥さんになり、他にもシルクレディーの子も後輩JCの奥さんになった。
私が理事長の時、3回目のシルクデーを行う予定であったが、昭和天皇の危篤状態によりありあちらこちらのイベントが中止、延期とされていた。そこで市長に相談に行ったが、やればいいと突き放された。JCはパンフレットまで作り、準備が着々と進んでいた。一人思い悩み、このイベントの将来を考え理事会の議決を待たずに、理事長の判断と責任で例会にて中止の発表をした。しかし翌年4回目が開催されて以来、今日まで24回続いている富岡のイベントに育った。
その間、旧官営富岡製糸場文化遺産としてユネスコ世界遺産に暫定リストに登録することを、当時の小寺知事が声明を出し、現在地元では世界遺産登録に向けて諸団体と行政が活動を行っております。