markdadaoの日記

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富岡製糸場を舞台としたザ・シルクデー(生い立ち)


24年前、赤澤理事長から旧官営富岡製糸場の利活用プログラムの指示を受けた。当時私は富岡青年会議所の副理事長で、社会開発の室長として2つの委員会を受け持っていた。そのうちの一つに佐藤周一委員長がおり、彼は仕事を放り出して協力してもらい、このシルクデーと言うイベントが生まれた。
自分は富岡へ19歳で居を移し、年寄りが采配する地元のお祭りで神輿を担ぐことも参加することもできなかった。そこで若者が主人公になり、楽しめるお祭りを作りたかった。それと、富岡にやってきて町並の低い軒から、突如威容を誇る赤レンガの建物で圧倒する官営富岡製糸場に関心があった。が、当時の町の人たちは特に大きな関心を示していなかった。それは、まだ片倉工業が操業をしており、工場は治外法権の敷地のような感があった。
ましてや当時の市行政や市長らは富岡市の一等地に余分なものがあるとして、むしろ邪魔者扱いをしており、片倉工業の社長が市役所へ表敬訪問をした際、市長公室の外で何十分も待たし反感をもたれていた。
そういう状況の中、片倉工業の富岡工場の場長(工場長)橘高さんと単独で交渉を始めた。工場の敷地内で音を出したりイベントをやりたい。それについて協賛金もいただきたいと、怖さ知らずで申し込んだ。橘高工場長は戦時中特攻隊の生き残りで、機銃で足を打ち抜かれたつわものであった。

「お前は何でも頼んでくるが、片倉に何を貢献したのか?シルクの背広でも買うのか?」と詰問を受けた。
当時シルクの背広が三十万円くらいで、自分の給与より高く言葉に詰まった。そこで何か他に買えるものは無いか、カタログを見せてもらった。シルクのふんどしが1000円であった。小学生の臨海学校で締めた記憶しかなく、何か居心地が悪かった思い出があった。その他に女性のシルクのパンティーが同額であった。そこで「このシルクのパンティーを100枚まとめて買うから値段をまけてくれ」と交渉をした。片倉工業は日本中あちらこちらに工場や営業所があったが、1度に100枚をそろえることには数週間かかった。それでも工場長はまとめて八万円程度で売ってくれた。
それをJCの例会に持ち込み、皆に理由を説明し「奥さんや彼女のために1枚1000円で買ってくれ」と頼んだ。友情のお陰で数日で完売した。
今度は京橋の本社へ行き、担当の取締役社長室長とイベントに工場を借りる交渉をした。当時JRの大宮操作所を第2副都心として開発しており、片倉工業の社有地もその計画地内であった。担当重役はそのため大宮へ行かなければならなく、時間が無いと断られた。そこで大宮までの移動方法を聞いたら電車で行くとのこと。「私も電車で大宮までゆきますので、車内で話をさせてください」とお願いした。丁度車内が混んでおり、吊革にブル下がりながらイベントを説明をさせてもらった。「建物は歴史的価値があるものだから、火災にはくれぐれも気をつけてくれ」と使用許可の言質をとった。敷地内の火災防止のためのレイアウトなどの図面は、小松先輩に描いてもらった。
収益はパンティーの二万円のみ。市長へ市の補助予算を回してもらうよう依頼したが、ポケットマネーの三万円で断られた。やむ負えず群馬県の繊維工業課へ赴き、群馬県の蚕糸業の象徴として支援を依頼したが、すでに下降産業で予算はない。副知事だった小寺さんへもお願いしに行き、多少予算を回してもらった。まだまだイベント資金には足りないので、有料イベントとしてチケットを販売することにした。しかし初めてのことで知名度もなくまるっきり売れない。(続く)