当日の取材ニュースhttp://www.kahoku.co.jp/news/2012/04/20120430t15022.htm
浦戸フェリー「なのはなまる」就航 | ベイウェーブログ♪
震災津波被害前の桂島
浦戸貨物フェリーの就航式の祝賀会で、桂島の掲示写真の前で宮城県漁業協同組合塩釜浦戸支所運営委員長の千葉さんから震災時の桂島の状況を説明してもらいました。
地震発生後、島の消防団の若者たちが島民を強制的に丘にある廃校へ退避させました。そして1時間後海水浴場側から押し寄せた津波は丘を超え、反対側の波止場まで海が空から降るように平地を水没させました。200名の島民誰一人被害に合わずに済んだのは、1960年のチリ大地震津波での歴史の記憶が皆を救ったのでした。
そしていち早く自衛隊の救援活動で水、食糧などの物資の他に沖合に停泊した海上自衛隊艦船へ風呂の供与も受けた。更にタネ牡蠣の輸出で縁があった、アメリカとフランスによる物資供与で島民生活が確保できた。これは200名の救助単位が、丁度効果の計測に適当であったのでアメリカが支援対象にしたようだ。
本土から島で漁業をやりたいという若者(小泉さん全文表示 | 脱サラ漁師が壊滅の島復活!ネットで漁業オーナー呼びかけ : J-CASTテレビウォッチ)が中心となり、一口10,000円で3年後5,000円分を島で獲れた海産物(牡蠣、海苔など)を送ると言う支援活動を提案した。この話にNHKが聞きつけ全国放送で放映した。その後1週間おきに大手全国紙が取り上げてくれた。当初4〜500人集まればと考えていたが、何と18,000件の支援が集まり管理上締切にした。1.8億円の資金が集まり280人の島民へ9千万円の市場が瞬間に生まれたわけです。ただ想定外のことで、準備不足であるがありがたいことである。http://www.uminoko-saisei.net/homeその他ロータリークラブのマッチンググラント資金で、ノリだなに使用する大量の竹竿を設置し海苔の産業復興の手掛かりをつけることができました。国の資金でも牡蠣だなの錨なども準備できるようになりました。第3次補正により国は200億円の支援と引き換えに海産物の収穫を国へ直接納入すること。従って給与は国が支払ってくれることになった。また5.5億円の支援で協同組合海苔加工所の支援もしてもらえる。
祝賀会後設営ロータリークラブの便宜により、何クラブかのメンバーと一緒にその桂島へ渡ることになった。もちろん桂島の鈴木さんも同船された。浦戸フェリーに伴走するように約30分で桂島の岸壁に船をつけた。丁度花火が上がり、近隣の島民らがフェリーからの餅投げに集まる。
仲間が丘の上まで行こうと誘う。船長が時間までに帰らないと船を出す、というアナウンスを思い出しながら急ぐ。途中法事帰りの喪服姿の人達とすれ違う。まだブルーシートで覆われている家を見ながら、ようやく丘の上から眺望する。瓦礫を詰めた無数のトン袋の他は何もない。シャッターを切っていたが、その向こうに見える海岸線に行って見たくなった。みんなに黙って走り出した。海岸には未だ打ち捨てられている白いヨットが見えた。反対方向には壊れたコンテナがあった。松は枯れ、海岸沿いのボードウォークにあるコンクリートの柱は全て根元から倒れていた。丘の上の友人たちの姿が見えなくなり、慌てて戻ろうとした時、軽トラックから呼ぶ声がする。鈴木さんが迎えにきてくれ船に乗り遅れず済んだのだが、挨拶もろくにできず申し訳ない事をしてしまった。
鈴木さんらは、あの何もなくなった平地はもう建築する事ができないので、サッカー場として観光誘致を目論んでいる。そして私たち群馬の山の幸と、桂島の海の幸(海苔・牡蠣・ワカメ・昆布など)を交換販売しようと話が盛り上がった。今は物を売るお店が一つもないと言う。16件あった民宿も3件だけで、疎開した廃校の校庭にプレハブを立て生活をしている人達も数多くいる。まだまだこれからだ。浦戸フェリーの「なのはなまる」の活躍を期待する。