5月の連休は特別な用もないので、休み前にAmazonで本を購入した。美術家の篠田桃紅著の「100歳になってわかったこと」(人生は一人でも面白い)。
ブログで死生観などを記述する事もあったが、この本の冒頭「私には死生観はありません」を読み安堵する。
私に何か考えがあって生まれたわけではありませんし、私の好みでこの世にでてきたわけでもありません。自然のはからいによるもので、人の知能の外、人の領域ではないと思うからです。人の領域でないことに、思いをめぐらせても真理に近づくことはできません。それなら私は一切を考えず、毎日を自然体で生きるように心がけるだけです。
「百歳はこの世の治外法権」
この歳になると、誰とも対立する事はありませんし、誰とも私とは対立したくない。百歳はこの世の治外法権。自由という熟語は、自らに由ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感します。自らに因っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です。
「古代の『人』は一人で立っていた」
漢字の「人は」・・・お互いが支え合って生きる・・と言います。しかし古来の甲骨文字を見ますと「人」という字は、一人で立っています。 古代の「人」のほうが、本来の人の姿だと思います。古代の「人」のように、最期まで、一人で立っている人でありたいと願っています。
「過去を見る自分の目に変化が生まれる」
このところ、歳をとったことで初めて得られたもの、歳をとったらもう得られないもの、それらを達観して見ることができるようになりました。一方で、未来を見る目は少なくなります。若いときはたくさんの未来と夢を見ていました。あそこへ行ってみたい。あれを食べてみたい。こんな人に会いたい、こういう時間を過ごしたい。いろんなことを思います。しかし長く生きると、ある程度のことは満たしてきましたので、自分の目は未来よりも過去を見ていることに気づきます。歳をとれば、人にできることと、できないことがあることを思い知ります。そしてやがて悟りを得た境地に至ります。それは、できなくて悲しいというよりも諦めることを知ります。
「”いつ死んでもいい”は本当か」
生き物には生存本能が備わっています。長生きしたいと思うのが、生き物としての本能です。「いつ死んでもいい」と自分自身に言い聞かせているだけで、生きている限り人生は未完だと思います。
「いい加減は素晴らしい」
日本の文化には、余白を残し、臨機応変に、加えたり減らしたりすることのできる「いい加減」の精神があります。歳をとると、ますます身体の昨日範囲は狭くなりますから、ちょっとした偏りが大きなダメージになります。食事、睡眠、仕事、家事労働、人間関係など、あらゆる面で、その人に合ったいい加減さを保つことができれば、もう少しの長生きを望むことができるのではと思うこのごろです。
「あなたの人生を枠におさめない」
私が長生きしているのも。自らの人生を枠におさめなかったことが、幸いして、精神的にいい影響を及ぼしているのかもしれません。
続く