自由主義外交評論家(ジャーナリスト)の清沢洌氏による戦時中の日記を読む。昭和17年12月9日から20年5月5日の期間に書かれた日記の一部であり、著者は同年同月21日肺炎で亡くなられている。明治23年2月生まれですから55歳の生涯で、戦時中軍部への迎合もせず孤高なインテレクチャル。このような知識人による時代観察は貴重で、軍部に見つかればこのような日記は日の目にを浴びることもできず、本人も相当な危害を受けたでしょう。
悲惨な戦時中の「暗黒日記」から、”感じるもの”を以下に抜粋する。この日記を読むことで、今後戦争を回避する知恵を育みたい。
昭和18年11月3日
小汀夫妻、正ちゃんを戦争に出して、母親は毎日泣いているよし。「日本の母親と、米国の母親とが話し合ったら、戦争が早く片付きはせぬか」と言う。その通りである。
昭和18年12月1日
出征する人には必ず「お目出とう」と言わなければならない。また、戦死した人の遺族にも「お目出とう」というのだそうだ。佳田正一君の話に「二人の男子を戦争に出したが、お目出とうといわれると白々しい気がする」と。こうした感情と表現の不一致から、いろいろの問題が出てくるのだ。
昭和19年1月4日
大東亜戦争、満州事変いらいの政情は、軍部と官僚の握手である。戦争を職業とするものと、一部しか見えない事務屋、しかも支配意識の旺盛な連中が、妥協苟合した結果、この事態をしでかしたのである。
昭和19年1月16日
日本がアメリカ飛行士を銃殺したことは、非常な反響を米国で引き起こした。ルーズベルトはこれを利用し、国債を募集した。その成績は遥かに予定額を突破したという。
昭和19年3月10日
世界において、かくのごとき幼稚愚昧な指導者が、国家の重大事に国家を率いたることありや。ぼくは毎日こうした嘆息を漏らすのを常とする。
日曜休日を3月5日から全廃した。学校も日曜も授業し得るよう法令を改正する。よけい時間をかけることが能率をあげることだと考えるのが、時代精神である。
昭和19年4月30日
日本がこの興亡の大戦争を始めるのに、幾人がこれを知り、指導し、考え、交渉に当たったろう。おそらく数十人を出まい。秘密主義、官僚主義、指導者原理というものが、いかに危険であるかが、これでもわかる。
昭和19年10月5日
ドイツの無条件降伏を前提とし、ドイツを3分し米、英、ソで占領する案が、欧州諮問委員会で決定した旨、ストックホルム電は伝う。
昭和19年10月16日
行列が街にえんえんとつづいている。新聞を買うためである。とくに今日ながいのは、12日夜半、13日薄暮、14日昼間、同薄暮の三日間にわたる戦果の詳報を知らんがためだ。街の人がいかに捷報に飢えているかがわかる。
昭和19年11月17日
日本を侵略者と呼んだスターリンの演説に対し、政府は新聞雑誌に一切の批評を許さない。外務省あたりでは、スターリンがブルガリアに対するように、日本に宣戦布告をするかに考えているそうだ。それに脅えて何事も言わぬのである。
昭和19年12月17日
チャーチルが議会で、ソ連にカーゾン線以東を与えることを発表。イタリア、ギリシャに英国のフリー・ハンドを与える代わりに、ソ連にポーランドを与うる取引だ。これで今回の戦争が世界に平和をもたらすものでないことが、いよいよ明らかになった。ふたたびパワー・ポリテックスへの幕が開いたのである。
昭和19年12月23日
外交調査会のようなものがあるほうが、外交について大きな失敗をしないために良い。外交は遅すぎるほうがよいので、早すぎるのが困る。また、外交は老人がいい。第一に気が長い。第二に総合的知識がある。第三に判断が常識的である。
昭和20年2月2日
磯谷中将の話 一億玉砕というが、玉砕とはわれわれ軍人が言うことで、一億を玉砕させぬために軍人の玉砕が必要なのだと。
昭和20年2月20日
日本には憲法もなければ、法治国家でもない。ギャングの国である。警察でどんなことをされても仕方がないそうだ。正木君がそういうのである。正木君は死ぬつもりで戦っているという。さもあろう。
正木君は、また、東條前首相に対し、堂々と悪口ーーー正当な批評をしたおそらくは唯一の人であろう。
昭和20年4月3日
馬場恒吾氏も来る。暫く見ないうちに、いかにもおとろえが見える。馬場氏戦争は八月ごろすむだろうという。松本博士もそうした見通しであった。