markdadaoの日記

真空管アンプ用トランス、スマホ用衝撃吸収フィルム、RC、政治経済、読後感想など

七回忌の説教から

昨日、恩師の七回忌で、寺に向かいながら、自分なりに死への覚悟を決めてゆかねばとフト考えた。出来るならば、「夜寝て朝が来て、目が覚めれば今日も生きている、もし目が覚めなければそのまま」と言うのがいいな。これならば死への恐怖を回避できる。
焼香を済ませ読経が終わり、和尚さんが説教を始めた。私が思い描いていた浅はかな死生観を見抜いたように、「最近は唯物的に死後の世界は何もないという人がいる。」と話し始めた。

それは大きな間違いだ。亡くなるとすぐ棺箱行きと言うのは、これはほとんど身寄りのない人達である。しかし縁のない人でも供養するのが人間でしょう。
昔から古墳と言うのがある。古墳は太古の昔から集落の真ん中にあった。簡単に言うとお墓の周りに集落がある。だから亡くなった人はそれでお終いではなく、ずっと子孫とお付き合いをする。そして先祖さんが子孫を守ってくれるという発想がある。だから一周忌があり、三回忌があり七回忌があり、ずっと付き合っている。普通の人は亡くなった人に対し感謝の念がある。だから亡くなった人はずっと子孫の中に生き続ける。考えようによっては亡くなる前より、後の方が長いともいえる。毎日毎日、仏壇の中にいて、お水やお線香をもってお付き合いをする。
何故、そのようなことをするかと言うと、今日我々のこの身体を伝えてくれた人への感謝の気持ちがあるからだ。両親がいないで子供は出来ない。おじいちゃんおばあちゃんがいなくて私はいない。ずうっと太古の昔から大いなる命を受け継いで今日に伝わっている。その伝わっている命と言うのは、自分の身体の中で脈々といきづいている。そしてその細胞の一つ一つの中にDNAが入っている。お父さんお母さんどこへ行ったのか?どこにも行きゃしない。ちゃんとこの身体の中に生きている。
自分の身体をお預かりし、命の炎を子孫に伝えてゆく。だから命をお預かりし、生かさせていただいている間は御先祖さんに感謝する。この考えは今の生命科学と全く違いはない。2500年前のお釈迦様のお知恵にようやく追いついたと言える。
正月は冥途の旅の一里塚、馬籠もなく泊まり宿もなし。毎年毎年一年の区切りとして正月が来る。また一年、生かさせてもらった。お先祖様に感謝し、清らかな気持ちでこの営みを繰り返す、その幸せを噛みしめてもらいたい。