markdadaoの日記

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奉仕活動は誰のため?

大西良慶和尚のもとに入寺し、昭和63年から清水寺管主となった森清範(もり・せいはん)和尚の教えのなかに、日本人としてロータリークラブの奉仕の精神に近づくヒントを得ました。
ロータリークラブは世のため、人のために奉仕をする」と言う考えが根底にありますが、実際に海外の奉仕の現場では自分の行為を100%受け入れがたかった。しかしこのヒントにより、その「奉仕の機会に感謝する事」でストンと腑に落ちることができました。
そもそも、ロータリーはアメリカから生まれ、その指針はキリスト教の教えがベースにあると思われます。そしてキリスト教は愛を説いています。私たち東洋人の仏教は慈悲を説くと言われております。

「慈」は父の愛、「悲」は母の愛に似て一方には厳しさ、他方には無限の優しさがある。それはお互いが支え合うように「お互い様」の慈悲である。だから人の手助けをさせてもらう事で、自分の心の中にある良い種を育ませてもらったのですから、ここはやはりこちらが感謝しなければなりません。
人のために何かをするのではなく、自分のためにするんだという事です。それが「慈悲」です。人のために何かをしてやるという事になれば、それは慈悲とはほど遠い、自己顕示にすぎません。

国際奉仕活動にもヒントが以下のようにありました。

この社会では、人は互いに助け合って生きるものだ。そのためには、隣人の気持ちになれること、隣人の子供もわがこのように見なせる事が肝心です。仏様の慈悲とは、甘える事でも、もたれ合う事でもない。厳しさを含んだ共存共栄なのです。
これは同じ社会の人々同士の間だけでなく、他の民族にも通用する考えです。「自分の国さえ良ければどうでもいい」というのでは、慈悲とは程遠い。他国の子供が飢えているのなら、自分がそのために何が出来るのかを考え、実行するのが慈悲というものではないでしょうか?
人間の心の中には残念ながら、他人の不幸を喜ぶという種もあります。他人が困っているのを見て、「自分はそうでなくてよかった」と言う気持ちがあることは否定できません。そういう気持ちがあることを自覚する事がまず必要です。そして、その反対の種を意識して育む事が次に大切なのです。
「他人の不幸を何とかしてあげたい」というのも、心の中にある種です。その種を育む事は自分のためです。