markdadaoの日記

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松島トモ子の「多くの人たちとの出会いの中で」 その2

松島トモ子さんの話の続きです。

上尾市に住む長沢俊一さんから車いすのスタンディングパートナーの依頼があった。彼は若い時、オートバイ事故で胸から下がマヒし歩けない。五体満足に生んでくれた身体を駄目にした後悔から、彼の母親へ恩返しをするために車いすダンスを始めた。最初は車いすに乗る彼をコントロールできなく重たく、動かない。一度は切れてしまい、「自分で立ったらどうなの」と言ってしまった。彼は「実は夜中2時過ぎになると立てるのですよ」とジョークを言ったので救われた。努力をしたかいがあり、心のままに踊るとあの思い車いすが自然に動くようにになった。そして世界選手権で優勝をした。


自分は奉天にある満鉄病院で生まれた。本名は奉天の奉を用いて奉子と言う。母のお腹に10か月の時父は出征した。その後生死が分からずじまいで終戦となり、引き揚げが始まった。急に金持ちになった中国人達から、日本人は頭がいいとの理由で、引き揚げなければならない親からその子供達が買われた。彼女の母親もずいぶん売るように責められた。
帰国後、テレビで中国残留孤児が話題になると「売ってくれば良かった」と憎まれ口を言う。しかし、「大地の子」が現実のこととして母親は見ることが出来なかった。
無蓋貨車で逃げてきた。強奪や使役に会いながらようやく引き揚げ船で生きて帰ることが出来た。しかし船の中では嗜眠性脳膜炎が流行り、子供たちが死んでいった。その亡骸を海に捨てるのだが、捨てられない親もいた。彼女の母親は、子供をおぶっていると顔が見えないので死んだかどうかわからないから、カンガルーのように胸に吊るした。
帰国して父を待ったが、知人のスミダさんが「収容所にいたあなたの父を埋めてきた」と知らせに来てくれた。23歳の母は号泣をした。出兵し3カ月で死んでいったのだ。45年経ってようやく、父親の最期の場所へ行く機会を得た。シベリア鉄道に乗り、土饅頭になった墓を探す。現地のアンナおばさんの記憶を辿り、探すのを手伝ってくれた。その町は男の人が少ないので理由を聞いたら「男たちは戦争で死んだから」、その年代の男は少ないそうだ。残された女の悲劇は世界中どこでも同じだ。
急に立ち入り禁止令が出て表に出ることが出来なくなった。「モスクワで探す許可を得ている」と抗議をしたが、そこからモスクワは7時間も離れている。5日間待って帰国の日となった。その日3時間だけ外出許可が出た。自分達は素手でその土地を必死で掘った。しかし母親はその土の塊をやさしく撫でていた。そして「ここでいい」と言った。
日本の方向に向け卒塔婆を立て、バラとカーネンションと80本のローソクを添える。知らぬ間に母は喪服姿となり、長い時間そこに話しかけていた。まるでその姿は絵のようであった。ロシア人達は私達を見ず、後ろ姿で3時間過ぎたのを黙認していた。
帰りの列車で母に「なぜ再婚しなかったのか?」理由を聞く。「出征なさるとき、『絶対に生きて帰ってくるから、待っててくれ』とおっしゃいました。たった一つの約束ですから、守ってあげなければ」と。 母はその言葉を守ってきたのです。
数年前、山形県の鶴岡で「シベリヤ夜曲」の歌唱指導を、遺児である私へ依頼があり現地に行った。全国抑留者補償協議会会長の斎藤六郎さん等と一緒に嗚咽の中で3番まで歌った。そして「100万本のバラ」も歌った。歌った後、参加者が1本づつバラを手渡し、自分の手元には70本のバラとなった。そして皆、生きて帰ったことへの許しを乞いた。その時、自分は父に孝行したと感じた。
母は今も90歳で元気である。