markdadaoの日記

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「富岡製糸場のある町」の生い立ち

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住んでいる町の生い立ちを知るきっかけは、6年前岡野前市長の時代、富岡のまち編纂委員会が編集した「富岡のまち」を偶然読んだことにある。これは長年編纂委員であった今井幹夫先生を始めとした諸先生の尽力によるもので、以下に大綱を記す。

最近、ユネスコの「世界記憶」に登録された、その多胡碑が建立された711年当時、富岡はまだ存在せず、現在の市街地周辺に小村があった程度であった。1590年豊臣秀吉が天下統一をし、未来の富岡を作ることになった中野七蔵が宮崎城(富岡市西地域にある)に入城し、代官とし統治を始める。1615年、織田信雄織田信長の次男)が小幡を支配することになる。翌1916年には前田利家の五男利孝が七日市に陣屋を築く。

 

1612年から中野代官は検地を始め、まちづくりのための予備調査をした。そして畑にもならず、耕作をしていない土地を1617年に新田開発(町づくり)し、新たなる富岡が誕生することになる。その開発地へ宮崎や酢ノ瀬(瀬下)などから住民を移住させた。移住の条件として、九斎市(定期的に行われる市)開催の許可と、南牧から産出される砥石(主に江戸へ送られる刃物を砥ぐ)の中継基地としての事業許可を与えた。これは商業の発展と交通の要所を想定していたと思われる。

町名の由来は不明だが、生産性の低い地域を「富める岡」との願望と思われる。その富岡は代官陣屋(役所)予定地を囲むように町を配置した。町の中央には諏訪神社があり、そこでの毎月27日に行われる市祭には、多くの参詣者で賑わったそうだ。そしてその代官陣屋予定地が、明治4年3月に着工、明治5年7月に建物が完成し、10月に操業を開始した官営富岡製糸場となる。

養蚕の盛んだった富岡の「市」は絹の取引が活発で、江戸の資本(三井越後屋)が進出してきた。それが縁なのか、官営富岡製糸場明治26年1893年に民間払い下げとして三井の手に渡る。

当時、フランスで蚕の伝染病が蔓延し絹の需給バランスが崩れ、また各農家による座繰り生糸には品質に均一性がなく、さらに粗製乱造が明治維新まで続く。明治政府は近代化を図り、富国強兵という目的を掲げ明治3年1870年に「官営製糸場設立の儀」を決し、模範工場として近代製糸産業育成の礎を目論む。そして養蚕が盛んな埼玉・群馬・長野を外国人技師(ポールブリューナ)等と視察し、以下の理由により富岡を選定した。

1.養蚕が盛んで生糸取引の中心、2.広大な陣屋予定地の転用により用地確保が容易、⒊ 住民の同意書が提出された、4.用水の確保が容易、⒌ 高崎でボイラー燃料の石炭が取れる。

明治以降富岡は発展を続けたが、化学繊維の発展や途上国からの生糸輸入により製糸業は次第に衰退してゆく。そして少子高齢化の波などにより、昭和46年1971年をピークに富岡も人口減少を始める。

平成15年2003年に「富岡製糸場ユネスコ世界遺産推進」の提案が当時の小寺知事よりあり、平成26年2014年に正式登録される。それより早く1986年には地元富岡青年会議所が場内で富岡製糸場の保存と活用を目的にイベント「ザ・シルクデー」を20数年継続開催してきた。