markdadaoの日記

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めぐりめぐる

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先日、墓のカロートのメンテナンスが終わったので確認に弟と訪問。そしてカロート内にある骨壷を見る。江戸末期の先祖から含め8つの骨壷があったが、名前が判明できないものもある。それでも没後50年の父親の小さな骨壺に合掌、供養し帰路に就く。そして二人だけでは、数十年ぶりとなる昼食を摂る。

弟は私と一緒に父が残した群馬の工場でしばらく働くが、1年発起し立大へ入学。父が努力してもうまくゆかない工場運営を、まだ10代であった兄弟二人がやっても共倒れになると母の思惑があったそうだ。その後、早期退社し母の面倒や墓の管理をしている。

西東京にある母宅や、娘夫婦がいる江東に泊まるには、煩わしさを与えると思い、しかし、孫には会うつもりで近隣の日本橋のホテルを予約しておいた。

偶然にも本日見た骨壷の先祖の一人は、江戸末期この地へ、長野から丁稚奉公へ。人一倍倹約に努め「ケチ勘」と呼ばれながら、日本橋二丁目2番地に雑貨屋を開いた母方の先祖である滝澤勘右衛門である。この先祖が、この辺りをテクテク歩いてたかも知れないと思うとワクワクする。

そして、娘は長野出身の旦那さんとめぐりあい、長野で挙式・披露宴をした。

戦時中父は、陸軍研究所の軍人として京大で研究のため出向していた。そして娘夫婦が一時期、京都で過ごしていた時、私も何回か京都を訪れ市内を散策した。古い建物を見つけては「親父も当時この建物を見ていたのかな」と。

同じく戦時中、母は親戚の者の疎開先であった下仁田へ東京から高崎線、上信線を乗り継ぎ毎月通ったそうだ。それが父と結婚し、仕事の関係で富岡の地で住むことになったのも不思議な縁である。