markdadaoの日記

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「いのちの器」を読んで

 

〈新装版〉いのちの器 (PHP文庫)

〈新装版〉いのちの器 (PHP文庫)

 

 

友人で保険屋さんのS君から保険転換のアドバイスをうけた。理由は、加齢とともに死亡リスクが高まり、掛け金が大幅に増加するからだ。改めて「その日」が近づいてきたことを知らされる。

自分ではまだまだと思っていたが、日本人の男性の平均余命から試算すると私は16年ほどである。ましてや健康年齢(日常生活が制限されることなく生活できる)はその半分の8年ほどとなる。

自分だけは特別だと思いたくなるのだが、世の中の平均は事実である。そもそも病院に担ぎ込まれた際「きっとすぐに回復する」と思いながら、しかし「まさか、まさか」と入院する羽目になる。ましてやベッドに横たわりながら、おもむろにドクターが私の脈をとり始めたら覚悟をしなければならない。

日野原重明先生の「いのちの器」に、ドクターの立場からの小編がある。そしてタイトルの「器」について、「土の器のからだは朽ちても、その中に盛られた健やかな魂は誰かの心に生き続けられる」と言っている。

 

多分駄目だと思う重病を持つ人々ほど春を待つ心が強い。・・・その病人には再び春が訪れることはないかもしれない。病む人の心に春を宿してあげたい気持ちである。

 

徳富蘆花は50歳の誕生日を迎えての随筆「新春」に、

「山の上にも山あり、山の奥にも山がある。人の生の旅はただ登りです」と書いている。人生とは卒業のない旅であり、日は遠からず暮れる。

 

今後、墓のイメージはますます多様化するであろう。・・・家の中で、いつも個人が偲ばれて、悲しみも喜びも、故人と分かち合えるような、故人の好きだったもの、愛用したものが家の中に置かれると良いと思う。

 

1919年に70歳で亡くなったオスラー博士は学者だけでなく臨床医のあるべき生き方を身をもって示した。当時の医学生たちに次のように述べている。

「諸君が生を受けたのは自己のためではなく、他人の幸福のためであることを良く心に覚えるべきである」と。

 

40歳以上の人は、当人はもちろん家族のものも平素から心得てほしい。一番多い危険な緊急事態というのは、心筋梗塞、また動脈瘤破裂、次いで脳卒中、肺炎など。また年配者ではちょっと転んでも骨折を起こすことがある。

 

定年後の第三の人生は、自分の意思と計画と趣味とで自分が選択する生き方を地でいける最後の人生である。

哲学者谷川徹三氏はこう言っている。「生は問い、死は答え」だと。第三の人生をどう生きるかのデザインが、どう死ぬかの答えでもあろう。

 

からだが痛み、心が悩み悲しみ、起き上がる気力を失った時、誰かが、もしそれを周辺の親しいものから得られなければ、社会が、その身も心も傷んでいる人間を支える配慮をし、国家がその社会を支える政策を立てなければならない。

一方、支えを受ける側として考えねばならぬことも多い。病気に耐え、気丈に生きるには、何を心の支えにすべきかを。

 

戦争中耐えることを学んだ人は、地球の各所で苦しみに耐えている人の心がわかると思う。物が多いと、貧しい人の気持ちをいたわる感性が養われない。・・・富める文明は、人間にとっては不幸とも言えよう。

 

人から直接間接に受けた愛の労苦を無駄にしないということも、私たちが健やかに生きる道だと思う。

 

良寛が亡くなる前に、良寛に心を寄せた貞心尼が読んだという句がある。

「うらをみせておもてをみせて散るもみじ」

めいめいに与えられた環境、まためいめいが築き上げた環境の中で、人は散っていく。その時の姿は、人間の最後に生きる姿であり、また死ぬ姿でもある。老人はもっと自らの色素で染め、風が吹けばお迎えの風に乗って、大地に還るという自然の心を持ちたいと思う。

 

フィリップ・タマルティ教授は「希望は人間が生きていく上で欠くべからざるものの一つであり、これがないと人生は暗く、冷たく、欲求不満を起こさせることになる・・・、わずかでも、とにかく希望があれば、人は困難に耐えられ、なおも夢をみたり、空想もし、計画を立て、手をさしのべて生を取り込むことができる」

 

「告知後の毎日をどうその患者と対決していくつもりか、それだけの人間的力量をはたして医師に期待してよいものか」

告知した後の主治医には、からだと心に十字架のように重い負担を背負う覚悟と、それを実践させる現実の行動力の用意があるか。

 

人とのコミュニケーションで最も必要なのは、視覚より聴覚である。見えなくても人の声が、言葉が聞こえれば、人は反応する。

老人には、外界との接触、コミュニケーションが保たれる場を、周囲の者で作ってあげ、その中で老人が生き甲斐を感じるように配慮すべきである。

 

患者は、気管内に管が入っているため、臨終の際に一言も、発語できない。・・・人間の最期は、孤独で、はかなく、人生の中で一番の不幸な時が、最後に来るという感じを強くするのである。ひと言も、ものが言えずに死ぬことは、なんと淋しく、切ないことであろうか・

終末医療を有終の医療にすることはできないのか。古き時代に、老人はもちろん、多くの病人はそれほど苦しまないで静かに死んでいったのに。