markdadaoの日記

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英会話悪戦奮闘記

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初めての英語の触れ合いは小学校へ入る前、住み込みのお兄さんがギター片手にロカビリーBe Bop a Lulaを歌い、意味もわからず僕も口ずさむ。そして小学校低学年時、家族同士の付き合いの縁でクラスメートの母親が週一回英会話を教えに来てくれる事から始まった。

 

しかしその家族はしばらくしてアメリカのサクラメントに移住することとなり、横浜港の桟橋に横付けされた大きな客船へ見送りに行き、僕の最初の英会話は終わった。

今でこそアメリカのプロパガンダと言われる「パパは何でも知っている」を、テレビで見てはアメリカに憧れ小学生時代を過ごす。中学に入り、幸い英語教諭が担任となり、毎朝英単語のヒアリングテストで語彙を増やした。

しばらくしてBeatles のトリコとなり、ラジオから流れる歌を耳で習った。その後アメリカンポップスやBeatles の歌詞が手に入り、学校で教わった発音で歌い始めたのが悪かった。レコードの言葉と違う。ここで和製英語が身についてしまった。高校、大学時代のロックバンドでは歌詞を覚えるためにノートへ書き、目で見たひどい英語で歌っていた様だ。

この脱却には苦労をした。運良くプライベートの英会話の先生の名前がRachel先生。最初にRがあり最後にl(エル)が混じる単語の発音は難しく、先生も自分の名前を違う発音で言われるのが嫌なのか、鏡の前で何度も何度もレイチェル、ウレイチェル、レイチェロと、何が何だかわからなくなるくらい発音練習をした。

この様な単語を正確に発声できないと、逆にヒアリングも出来ず会話にならない。戦後アメリカが進駐し、せめて英語を第2外国語にしなかったのか、この時は恨めしかった。

余談だが、戦後のどさくさ期、進駐軍相手に英会話を駆使しぼろ儲けをし、一代で財を築きコンサルタント業でビルを建てたS氏に、19才の時経営の秘伝を教わった。その様な影響から社会人になっても英会話に興味を持ち続けた。

残念だったのは、レーガン大統領時代の司法長官だったEdwin Meese氏と、Lee農務長官に会う機会を得、自分の英語力の足りなさに満足に会話もできず打ちのめされた時だった。

 

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今でもネイティヴな人との会話は自信がないが、それ以外の国の人たちとはコミュニケーションが取れる様になり、英語を媒体として商取引を行なえるようになった。

最近は便利になり、SMS で簡単に意思疎通が出来る。複雑な内容はスケッチや絵、動画で確認しあうこともできる。更に翻訳アプリを活用する。これは独自のやり方だが、言いたい事を日本語で書き、一度英訳をする。その英文の文法や適訳の語彙に問題がある時は再度日本語を直す。この作業を数回行い、この程度なら通じるだろうとした後に、コピペしてメール送信する。おかげで単語を探す手間が省ける様になった。

また、気に入った英語の歌詞を見ながら聞いていると、リエゾン(語尾の子音と次の単語の語頭のつながる発音)を学ぶことができる。

こんなにじいさんが苦労して英会話をやっているのに、孫たちは素晴らしいアクセントで英単語を簡単に発する。彼らは耳から英語を学んでいるからであり、文科省グローバル化に対応するため小学校のカリキュラムに英語教育を導入するとの事だ。カタカナ英語や和製英語で我々の二の前を踏まないようにして欲しい。

http://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/gaikokugo/__icsFiles/afieldfile/2014/01/31/1343704_01.pdf

できれば英語は動機付けだけにして、日本の文化や歴史を学んで欲しい。特に日本の近代史を学んでもらわないと、海外の人たちとの交流において戦前戦後の日本の背景を説明できない。そして短期でもいいから留学をして欲しい。

世界は行き過ぎたグローバル化からポピュリズムへ振れ戻しているのだが、世界共通語となっている英語は、日本人にとってはまだまだ必要かもしれない。