今流行りの、佐藤愛子著の「人間の煩悩」を読む。短編集なのですぐに読むことができるが、反面記憶もすぐに薄れるだろう。せっかく面白いと思った内容が消えてしまうことは残念である。そこで、また忘備録として以下に抜粋してみる。
『時に怒号が慰めになる』
「先生、夫の会社がつぶれました」いきなり私がいった。一瞬先生はポカーンとした顔になり、それからみるみる真赤になって怒鳴った。
「T(夫の名前)の馬鹿野郎が!馬鹿野郎!馬鹿野郎!」破れ鐘のような怒号を聞くと、どっと涙が溢れ、私はワンワン声を上げて泣いた。私が泣くと先生の「馬鹿野郎」の声はますます大きくなり、恰も「馬鹿野郎」と泣き声の競演といった様相を呈したのである。
吉田先生は詩人であったから「馬鹿野郎」という以外に、何のアドバイスも出来なかったのだ。だが先生の怒号はどんなアドバイスよりも同情よりも私の孤独に染み入って、私を泣かせ、私を慰めたのである。
『災害が教えてくれること』
「想定外」もヘッタクレもない。自然の力を想定して制するよりも、自分たちの限界を想定するべきだった。人間は人間の「分際」を弁えるべきであった。今回の災害(東日本大震災)で私が学んだのはそのことである。
『過ぎ去ってから気づく幸せ』
何とかして自由になりたいと皆思ってジレているのです。そして誰からも拘束されず、ひとり気ままに暮らせるようになってからはじめて、あの時ーーー自由のなさにジレて怒ってばかりいた時が一番幸せだったことに気がつくのです。
『善意にこそ用心するべし』
何のかのといっても、やはり人間は善意には目が眩んでしまうのだ。我々は善意にこそ用心をしなければならないものなのに。
『「損をするまい」として生きたくない』
「沈まなければ浮かなかった。浮かなければ沈まなかった。そんなもん、考えたってしようがないがな」という心境になるのである。これを達観というか諦観というかはよくわからないが。
『苦難の中にも「救い」はある』
あの時、借金がふりかかってきたからこそ、私はぐうたらの一生を過ごさずにすんだのだ、と。そうでもなかったら、もともとぐうたらの私はどうなっていたかわからない。
『お金と人生』
私には損のタコ、裏切れタコ、喧嘩タコ、苦労のタコ、全身がタコで固まっていて、そのおかげで何があろうと平気でいられるようになった。
幸福というものは、金があってもなくても、平穏であろうとなかろうと、常に自分自身として平然として生きていけることだと私は考える。そういう幸福を身に付けたいものだと願っている。
とにもかくにも私は力を抜くことなく、力イッパイ生きた。人生の終幕に差し掛かって改めておもうことはその満足である。この満足を与えてくれた、もろもろの苦難を有難いと思うようになれたことを今、幸福だと思う。
『元気の源』
忘れて、ふざけて、馴れるーーー。
「なるほど、それが生きるテクニックですか?」 テクニックだなんて、そんな生やさしいものではない。それは力だ。元気を出す源泉である。人生が苛酷であればあるほど、それは増幅される。それを私は身をもって知ったのである。
『結婚のメリット、デメリット』
「元気ねえ」思わずいうと、
「亭主が死んでくれたおかげーーー」艶然と笑う。
昔は「主人」といっていたのが今は「亭主」という。
『泣かない女は苦渋を味わう』
女が涙を見せれば男の心は動くというが、女は女でもばあさんが泣くと男は舌打ちをする。それがまたいっそう、腹立たしく情けないのである。
『子供のしつけ』
親というものは自分のことを棚に上げげ子供を叱ることがあるが、それはやむおえないことだと私は思っている。ただその時に、「自分のことを棚に上げている」ということだけは、ちゃんと意識していることが必要なのである。
『子供らしい子供が減ったのはなぜか』
「挨拶をする子」は「しない子」よりも一応、好い子かもしれない。しかし、きちんと挨拶をしている一方で、「ウザイ」「キモイ」と叫んでいることもあり得るのだ。「挨拶もしないイヤな子供」が却って虐めなどに雷同せず、彼にとっての自然さ、正義を貫いている場合があるかもしれない。子供に子供の自然さ、子供らしさを取り戻させれば、陰湿な虐めや自殺はなくなる。
『感謝の気持ちをどれだけ持てるか』
「今日一日、親切にしようと想う。
今日一日、明るく朗らかにしようと想う。
今日一日、謙虚にしようと想う。
今日一日、素直になろうと想う。
今日一日、感謝をしようと想う。
これを紙に書き、いつも見える場所に貼って毎日見ること」
「但し、この五箇条を実行してはダメです。意識して実行すると失敗します」
無理に「立派な人」になる必要はない。立派な人になろうとしてはいけない。意識して行為をせず、ただ「想う」だけでいい。想うことがいつか身についていること、それが大事なのだ。
『欲望をなくす』
死と向き合って生きる者にとって必要なことは、欲望をなくし、孤独に耐える力を養うことだという考えに私は辿り着いた。たまたま、「慾なければ一切足る、求むることあれば万事窮す」という良寛の言葉を見つけ、私は意を強くしている。
『欲望が涸れると、らくになる』
欲望が涸れていくことは、らくになることなのだ。それと一緒に恨みつらみも嫉妬も心配も、見栄も負けん気も、もろもろの情念が涸れていく。それが「安らかな老後」というものだと私は思っている。
『老いの時間は死と親しむためにあり』
悲惨な死とはこの世に未練を残し、死を拒み恐れて死ぬことであろう。
『迷いの原因』
若いうちには迷いが多いというが、それは間違いである。年をとると迷いが増える。色んな経験をして、色んな人の気持ちがわかるようになるということが、この迷いの原因なのである。
『老人に価値はあるか』
老人の価値は若者よりも沢山の人生を生きていることだと私は思う。失敗した人生も成功した人生も頑固な人生も、怠け者の人生も、それなりに人生の喜怒哀楽を乗り越えてきた実績を抱えている。