markdadaoの日記

真空管アンプ用トランス、スマホ用衝撃吸収フィルム、RC、政治経済、読後感想など

いちばん幸せなこと

訪問先の位置確認のためグーグルマップを使っていた。ふと生家の状況を見たくなり、新宿区にある上落合に移動した。

すっかり周りはマンションが建ち並び、生まれ育った家はそれらの陰で見つけられなかった。もう一度表通りに戻る。その表通りには氷屋さんがあり、良く1貫目かその半分の氷を買いにいった。その隣に駄菓子屋があり、5円ぐらいの飴かガムを買っていたが、母の姉が遊びにきた時、当時の自分には信じられないくらいのたくさんのお菓子をそこで買ってくれた。路地の入り口にはオートバイ屋さんがあり、アパッチがおいてあり、キックしたペダルで足を挫くと修理工達が言っていた。当然それらの店舗は今は無い。その路地を辿りその生家の見当をつけた。そこは父の友人に売り渡したのだが、どうも大きな改築も無くそのまま60年以上経っており、屋根も黒く判別しづらい。

家の隣に菜の花畑があったが、すでにマンションになっていた。隣家も瀟洒なアパートになっている。前の家のオジサンは私たちが自宅にいても良く聞こえる大きなくしゃみをしていたが、当然亡くなっているだろう。その隣のうちの石畳に大きな瓶を何個も置いてあったが。当時は他人の家の垣根を次々と潜りながら、路地にでないでも目的地に行けた。

キャッチボールをやっていた路地を戻る。ここの路地で木箱に滑車を付けてガラガラ走り回り、隣のうちの息子さんが試験勉強をやっていると、そのお母さんに叱られた思い出がある。今見るとこんな狭い路地に、いつも物売りの三輪自動車が野菜等を売りに来て、近所中のおかみさん達が買いに来ていた。路地を左折してまっすぐ行くと幼稚園時代からの友人の松下君の家があったが、当時の形跡はない。そこから中井へ向かう下り坂がある。その途中の斜面を利用して土建屋さんの庭があり、そこには大きな温泉のような風呂が地下にあり、職人さん達が利用していたようだった。この坂では母と父が私の両手をつないで歩いてくれるので、時々足をあげてぶら下がった。この思い出が自分にとっていちばん幸せだった思い出である。