markdadaoの日記

真空管アンプ用トランス、スマホ用衝撃吸収フィルム、RC、政治経済、読後感想など

母とお琴

(左が5,6歳の頃使っていた爪と右が大人用の爪)
大正10年生まれの母から久しぶりで昔話を聞く。母は3人姉妹の真ん中で、両親の離婚後、姉妹がバラバラに生きる運命を背負う。しかし、運命の糸は不思議にも時を経てつながる。しかし母の系図と年表を描かないと簡単には理解しづらい。親子の会話はあったが、今晩のような大人同士の会話は珍しかった。

5歳前には新しい母親の元へ引き取られ、お琴の師匠である母から手ほどきを受けたが、実際はいろいろな先生へ出向き琴を教わった。今も子供の頃のお琴の爪を大事に残してある。そして15歳の頃はすでに多くのお弟子さんを抱える母に変わり、出稽古をやっていた。当時のお琴という習い事は、親が子に躾を習得させることが目的で通で習わせていた。
出稽古のお弟子さん達は高額な授業料を納めなければならず、ほとんどがお金持ちの人であった。そのお弟子さんの多くはお妾さんであった。お妾さんとはいえ、なかなかしっかりした人たちで正妻と同等のプライドがあった。横浜の伊勢佐木町で大きな花屋さんをやっていた、そのお妾さんも立派な家に賄いのお手伝いさんを置き、いつも昼食を用意してかわいがってもらった。
香港で踊り子をやっていたとても綺麗なお弟子さんは、なかなかの胆力のある方だった。お琴をやりたいと言うので、琴屋を紹介したら今で言うと200万円ぐらいの琴をすぐに購入した。1週間ぐらいして「琴をひいていたら主人が日本刀で真ん中からばっさりと、その琴を切ってしまったのでまた琴が欲しいです」と淡々と語り驚いてしまった。また「風呂場で頭から冷たい水を引っ掛けるんですよ。その時は平然としているんですが、変わっている人なんですよ」と話をする。ある日、出稽古で下馬のその家にいったら、部屋の中央で大の字になって寝ている小男がいた。それが右翼の活動家であった児玉誉士夫であった。床の間には日本刀がいつもおいてあった。

23歳で2代目の免許皆伝を受けたが、戦後はお琴では食べてゆけない時代となった。この「萬年家」は徳川の直参で御納戸役で赤門の敷地に住んでいたそうだ。