markdadaoの日記

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寄付金・義援金について

助さん角さんは水戸黄門の葵の入った印篭を見せ、「控えおろう」と言ってひれ伏せさせる。
現代、「私達はボランティアです。寄付金や義援金を出してください」と言って集金をする。本来の趣旨を説明し、理解してもらう手続きを省いてしまっているのではないか?

先月末、青年会議所が主催し「とみおか夏まつり」に花火大会を主催した。私は後輩達が一生懸命に町の活性化をはかる努力している姿を見て寄付をした。しかし、その後礼状に「東日本大震災被災地の花火を購入し、経済活性化の一助になった」と書かれていた。当初私がもう少し、このイベントに理解をしていれば、もっと多くの人たちに声をかけられたのにと悔いた。
官営製糸場をテーマに紙芝居を行った時、終了時に義援金をお願いした。喉を嗄らして頑張った演者に打たれ、多くの人から浄財をいただいた。しかし、なにもせず、ただブースに義援金箱を置いただけでは、1円も入らなかった。

青年会議所やロータリーで義援金や寄付を集う際、目的を理解してもらう説明力が問われる。更に、集う側は相手の財布からお金を出したくなる工夫が必要である。イベントを行う際、ただで人を集めるのではなく、人がお金を出してでも集まりたくなることに腐心しなければならない。第1回目のシルクデーというイベントではその戦略を掲げ、有料で人を集めた。しかし当時の私は若く戦術に稚拙なところがあり、最後は情熱と同情で押し切ったことは歪めない。

「隣がいくら出したから、私も出さないわけにはいかない」という方法で寄付金を集める人もいる。「隣家がこの商品を買ったからお宅も買ってください」という自尊心に訴える商法に似ている。これは良くない。そこに集まったお金は、今回限りの2度とその財布からは出ない、と認識すべきだろう。
寄金を集めるには大義があり、それを単純に理解してもらう説明に工夫が必要であろう。人は簡単に財布を明けないものだ。