markdadaoの日記

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東日本大震災救援ボランティア その4

6時起床。洗顔して朝食を摂る。この2日間では最高の食事である。ここのホテルは、シーズンオフでもあり、ボランティアの方に開放さており低額料金で朝食付きで宿泊できる。個人や小グループで来られているボランティアの人たちや、専門業務を派遣されて来ている方達が多く、話を聞いていると長期宿泊者のようである。




7時15分にホテルを出発し、昨日のベース地に皆を待たせ、再びボランティアセンターへ本日の計画を確認するために向かう。センターの前は県内の個人で来られているボランティアの方たちであふれかえっていた。2階の事務所へ入ると鈴木副市長と、飯田社会福祉協議会会長らに出迎えられた。市長は災害会議で昨日から上京しているとのこと。


早速、今日の予定を確認したところ、昨日の働きに合わせ、今日は何と9か所の住宅の家財道具や畳の処分の依頼を受けた。昨日と同様に、まず午前中作業する現場確認に数名が飛ぶ。今日は午前中に6か所、午後3か所の予定でチーム編成を4人単位で6チームを編成する。そしてリーダー達が仕事の状況を相互に携帯で連絡しあい、無駄なく作業の支援することとした。



私達のチームが担当した住民は、津波の連絡を受け近くのショッピングセンターのニチイへ退避し難を逃れたそうだ。しかし、住宅は2mほどの高さに2本黒いラインがあった。これはオイル交じりの海水が押し寄せ、その後じわじわと20cmほど水位が上がり、しばらくそのままだったそうだ。箪笥、食器戸棚、冷蔵庫、冷凍庫、洗濯機、畳などを出した。次に近隣の別なチームを支援しに行く。畳を出した後で床下のヘドロまで掻き出すように、との家主の要求があった。チームのメンバーがチェーンソーとバールを持ってきていたので、床下を剥がし、外国人部隊がヘドロを戸外へ掻き出した。相当な工数がかかってしまった。私たちのチームは道具が無いので、別なチームを支援に行くこととした。
南に面した高級な和式住宅であった。部屋数も多く、畳数もあり更に奥の応接間も片付けるようにとのことで、ヘドロで真っ黒となった厚手の絨毯も片付けなければならなかった。ここは若い人たちのチームが担当しており、畳を良くもたくさん出していたと関心。誰も愚痴も言わず仕事をこなしていた。ここの家主は逃げ遅れて丸2日間2階の水の中に孤立し、自衛隊に助けてもらったそうだ。

多賀城RCの横田幹事さんはコンビニエンスストアーを経営されており、25人分のお弁当を依頼しておいた。しかし、多賀城RCがこの昼食と飲み物を我々に差し入れしてもらうこととなってしまった。隣のグラウンドで昼食を考えていたが、強い風で砂塵が舞っており、その高級住宅の畳を上げたところにブルーシートを敷き、そこで食事を摂らせていただく事を家主に了承を得た。しかし乾いたヘドロの粉が舞う中での昼食にも、誰も文句を言うものはいなかった。
午後の現場に再度担当者が確認に行く中、またRCの横田幹事さんに来ていただき、うちのクラブのドイツ人会員が持参した、子供たちの洋服や靴を寄贈させてもらった。ドイツでは良いものを大事に使い、決して捨てないそうだ。そうしてこのように役に立つように、使いまわすのが風習だそうだ。

午後の最初の家は路地の奥にあり、一輪車が大活躍して、畳を1枚1枚外の道路まで出す事が出来た。次の応援先は、家屋が3軒ある細長い敷地の住宅であった。水害にあい、1カ月近く来る事が出来なかったとのことで、荒れ放題であった。きりがないほどの家財道具があり、それでも皆は黙々と作業をしていた。しかしこのままでは3時まで終わらない。一番奥の家屋内を覗くと、ゴミの捨て場のようであった。家主に聞くとここは普段使っていない建物で、不要なものを押し込んでいたそうだ。今日中に群馬に戻らなければならないと説明をし、そこを撤収することにした。
再度、ボランティアセンターへ行き、報告書を提出し帰路につく。福島県内で昨日の余震による路肩が落ち、1時間余りの工事渋滞に巻き込まれ、矢板北のPAで軽い夕食を摂り、10時近くに富岡へ到着。
(続く)