markdadaoの日記

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東日本大震災救援ボランティア その3


昼食後、私と同じロータリークラブのメンバー二人は、偶然近所にある多賀城ロータリークラブの事務所へ横田幹事の案内で徒歩で行った。
そこで義捐金を渡し、バナーの交換を行った。そして今後、復興支援として私たちの町で行われるイベントに、物販ブースを出し、多賀城市の産品を販売する計画を話し合った、次年度会長(エレクト)はお味噌の会社を経営しており、また会員の中で観光協会の会長もいるので、立案出来そうである。

話し合いが終わり、多賀城市被災現場を視察させていただく事になった。先日、民主党国会議員が視察にみえ、横田幹事が同行されたそうで、同じルートを辿る事となった。

廃棄物が散乱している産業道路を渡り、震災後いち早く開港した仙台港へ向かう。自衛隊のお陰で、海からの物資流入が出来るようになったとのこと。この町は陸上自衛隊多賀城駐屯基地があり、訓練学校でもあるようで若い隊員が多く、機動力があるようだ。

これら海浜地帯は浸水と火災で、倉庫や大型トラックなどが壊滅状態にある。驚く事にガスタンクが一つ転がっていた。


昔、伊達政宗公の避暑地として仮御殿があった場所で、現在「御殿場」という旅館がある入江へ向かった。こちらは七ヶ浜町で、普段は海水浴やマリンスポーツで賑わっているところだそうだが、高台を除いて住居や建物が相当な被害を受けていた。海岸のテトラポットに軽トラックが打ち上げられていた。
住宅地は未だに瓦礫状態で、自衛隊の人たちが片付けや捜索を行っていた。砂浜には40フィートもあるコンテナが散乱している。ガソリンスタンドの給油機がもぎ取られていた。

建物の屋根に漁船が乗っていたのが、津波の高さを証明していた。七ヶ浜とは七つの浜があるので、名付けられているのだが、たった一か所の入江「奥の東宮浜」は無事であったそうだ。松島も比較的被害が軽かったのは、小島が津波の力を分散させた、地理的条件からではないだろうか。



家人たちから託されていた炊き出しの五目酢飯を渡すため、山王公民館へと向かった。途中仙石線を渡った際、踏切近くに電車が震災で止まったままであった。遠くに見える宮城スタジアムも、今は遺体安置所となっているとのこと。明治6年に建てられた小学校跡地に、目的地である山王公民館があった。館長さんに挨拶をした後、テレビを見ていた親子連れのお母さんに五目酢飯を「皆さまへ」と渡した。ここは新田(にいだ)地区で地震災害にあった人達が約100名避難されている。夕食は6時とのこと、私たちの今晩の宿である宮城蔵王まで1時間30分かかるので、すぐに戻る事とした。

帰り途に、史跡か所を通り、いつもならのどかな町であったのにと感慨深く景色を後にした。とりあえず市役所に戻り、本日の作業の報告書を提出し、皆がいるベースへ向かう。

ホテルへ戻り、風呂を浴び、夕食は途中で購入した唐揚げ弁当を一堂に会し食べ、8時には就寝。しかし、2時間後富岡の友人である市会議員から状況を心配してか電話が鳴り起こされる。昨晩の徹夜走行と、昼間の労働とショッキングな光景で心身共に疲弊し、熟睡する。
(続く)