markdadaoの日記

真空管アンプ用トランス、スマホ用衝撃吸収フィルム、RC、政治経済、読後感想など

園田健司先生


群馬県青年会議所のOBで構成する群馬ブロックシニア総会及び講演会が太田市で開催された。
講師に群馬松嶺福祉短大学長の園田健司先生をお招きし、約1時間の御講演をいただいた。タイトルは「人は人生に何を追い求め、何に生きがいや充実感を感ずるか」、サブタイトルとして「私の人生を通して思うこと。禅と心の安定を考える。」

開口一番"Assertion"ということはと説明があった。「自分と相手を大切に考え、TPOに合わせて自分の気持ちを素直に力強く表現すること」という意味で、自己主張するだけではなく、相手の立場を考えることが肝要とのことである。
次に「私の歩んできた道」と題し、赤裸々に先生の経歴をお話をされた。
小学生の時、勉強をせず良く喧嘩をし廊下に水の入ったバケツを持たされ立たされた。その間に色々な事を考える。”喧嘩に勝つと子分が出来る。よその親分格と喧嘩をして勝つと新たなるグループを吸収する。これはいったい何なんだ?”また、学校外でもよく暴れて近所の大人たちにも首根っこを掴まれることがあった。その時自分のおじいさんが学校の校長だったことを知ると態度が変わる。”大人は家柄や身分で対応が変わるのはおかしい?”
戦後、軍需工場だった太田市にGHQがやって来て飛行場跡地などに彼らのアパートを建設する。その建設資材の調達に、アメリカからダンプカーを10数台持ってきて近隣の木材やコンクリートを運ぶ。彼らは治外法権で好き勝手にしており、そのアパートにパンパンを連れ込んだり、毎年小学生がそのダンプに轢かれ死んでいった。しかし誰一人文句が言えなかった。その時からアメリカに敵愾心を燃やした。
学業はオール1であったがスポーツが得意であったので劣等感は無かった。負けず嫌いで人に見られないように夜良く練習をした。しかしその得意なスポーツに挫折する転機が訪れた。それは本態性高血圧と診断され、県大会にドクターストップを受け参加できなくなった。スポーツで生きることが出来なくなったので、一生懸命勉強をして太田高校へ入学。中学時代のスポーツの成績を知られているのでスカウトを受けたが陸上部へ入らなかった。入学して隣の席に学業1番の子がいて彼は後に東大へ進学。
当時群馬県日教組のNo.2であった担任の谷崎先生から、「今は知識を得る時で、イデオロギー論争はその後で良い」と言われ、「人生は長い、最後に勝てばよい」と教わった。
2時前には寝たことが無く、朝は遅刻すれすれで学校に飛び込む。ひらめきで対応できる数学だけは出来た。従って自分は理科系を専攻し、アメリカに勝てるものは何かと考えた。
東大のロケット博士の糸川先生にあこがれ2度受験するが浪人となり、理科大へ進学した。大学は自分で授業も先生も選べて楽しかった。そしてその時は良く本を読んだことで、理科系ではあるが文科系でもあると考えた。
結果、目標を国際ジャーナリストとした。そこで恩師に相談をしたら「ゼロからやれ」とのこと。理科大2年生の時、早稲田大学へ1年生で入学。アナウンス部に入り逸見正孝氏と出会う。彼は2学年先輩であったが、「自分と同い年だから仲良くやろう」と言われた。久米宏は学生時代より名アナウンサーであり「奥村チヨ」を初めて紹介したアナウンサーである。

(続く)