markdadaoの日記

真空管アンプ用トランス、スマホ用衝撃吸収フィルム、RC、政治経済、読後感想など

父親


大工の倅として大正2年東京の新宿に生まれ、学生のころは小野派一刀流の剣道に打ち込み、また一人登山をやっていたそうだ。一見硬派のように見えるが、水道橋のビリヤードで泊まり込んで遊んでいたり、ダンスも良くやっていたそうだ。
芝浦工大首席で卒業し、母親が一人息子を戦争に取られるのを避けるため陸軍研究所へ入ることとなった。研究のため京都大学へ出入りしたり、当時の士官は自由であったようだ。戦闘機に乗せてもらい、きりもみ状態で気を失ったことや、生意気だったそうで徒党組んだ集団に待ち伏せられジープで突っ込んだ思い出話をしていた。
本業の研究所ではアメリカの西海岸で爆発させる風船爆弾を作ったり、B29などの敵機を撃ち落とすレーザー光線の開発をやっていたそうだ。(日本が負けた理由が少しわかる)
戦時中、電子部品を発注していた外注先が研究所前にあり、その関係で戦後その変圧器製造を生業とした。当時素材の材質が悪く、東工大と共同で珪素鋼板を焼沌(アニーリング)をして材質改善をしていた。
最初のころは神武景気とやらで、商売も上手くいってたようで、アメリカ車を乗ったり、アパッチとかいうオートバイを乗っていた。趣味で写真もやっており、東中野ケルビンというカメラ屋さんと付き合いをしていた。この写真もその中の一枚である。
しかし根っから商売が下手で、会社の実印を経理に預けぱなしで手形を乱発され倒産に陥ったことがあった。そして新宿の土地を手放し、今の西東京市へ移り商売を継続していた。その頃は友達が良く訪れ自宅で麻雀をやっていた。気楽さからか良くダジャレを言いあい和気あいあいでやっているのを見て、自分もこのダジャレを引き継いでしまったようだ。
縁があり群馬へ工場を出す話があり、東京との車での往復中、昭和43年の12月18日に飲酒運転車に側面からぶつけられ、窓から放り出され、自分の車の下敷きとなり、翌日の19日の夕刻55歳で息を引き取った。