markdadaoの日記

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北京第4伝染病病院その2

1日で退院できると思ったのだが、2日、3日経っても熱が下がらない。
熱いお茶を飲み、部屋にあるタオルを全部体中に巻きつけ、布団を頭からかぶり寝た。目が覚めた時汗でびっしょりになり、熱も下がっていた。回診の先生だけは英語が通じたので、退院できるようにお願いをした。
この先生は最初の回診の際、熱で身体が痛いだろうと背中を指圧してくれた。日本では絶対やってくれない行為である。
その頃、国際貿易促進委員会(国貿促)の人たちが心配して天津市から見舞いに来ていただいた。熱が下がってきていたので、気が楽になり色々な話をした。話の内容に興味をもたれたのか、国貿促の会長に話を伝えるとのこと。
後日、わざわざ日本まで天津国際貿易促進委員会の海外顧問の招聘状を持って来られ、2期4年務めることになった。
最初に訪中した約30年前、上海空港でやはり嘔吐し、そのまま我慢して飛行機に乗った。確か長崎空港で一旦着陸し医師と看護婦が乗り込み診察をし、再度羽田へ向かった。その時の経験で、気圧の関係で身体の調子が悪化するということを理由に、飛行機へ乗せてくれない事を知った。そこで担当の先生に診断書を作成してもらい、飛行機に乗れるように署名を求め退院をした。今じゃ水際作戦と称し、このような症状の搭乗客を絶対に飛行機には乗せないだろう。
数日の入院ではあったが、退院し車窓から見える景色が実に輝いていた。こんな体験は初めてであった。
私だけが口にしたものは、天津市のホテルでカットフルーツの西瓜と、北京で食べた肉料理であったが、嘔吐と熱の原因はわからなかった。また、中日友好病院は何故、真夜中に私を移送したのか?その後日大病院に長く務めた友人の石井君の話では、中日友好病院へ日本は随分支援をしていると言っていた。そんなところで日本人に死なれては困ると判断したのだろうか?または私は伝染病の疑いがあると診断されたのであろうか?でも中日友好病院では、私を説得した看護婦さんはマスクをしていたとの記憶がない。

辛い思いもしたが、その後の4年間は中国での人脈作りと、色々な人に会えた経験が財産になった。